七割生活,とほほ

ちょっとニッチな分野の文系研究者による日々の感想とか,いろいろ

異なるものを排除する社会の正体。日本という国の不気味さ。

異なるものを排除する社会。
先日「障害者は安楽死をさせるべき」という主張をした26歳の青年が、そういう趣旨の手紙をわざわざ衆議院議長に手渡し、総理に相談したいといい、障害者を抹殺すると具体的な計画を書いて、そののち、措置入院などを経たあとにもかかわらず、計画を実行して、相模原市知的障害者身体障害者施設に侵入して19人を殺害、20人以上を傷つけ、そのご出頭した、という事件に発展した。ただいま2016年の7月28日であり、その後どうなっていくのかはあまりの反倫理的な主張に、皆が「精神的な異常なのか」「異常では無く極端なまちがった考えを実践したのか」戸惑っているところである。

 障害者への究極の差別のこの事件は26歳の若年層(の一部)がどんな常識をもっていたかということを示している。
 彼が精神に異常をもっていたとしても、彼自身は障害者を排除するという法律を作ってほしいと思っており、それを衆議院議長と首相に相談したいと思っているという点で
1,反社会的常識をもっている が、
2・「不可視な」社会の願望を代表していると自負している
ので、
「反倫理的」ではあるが「反権力」ではない。
むしろ、権力に自分のやったことをやってほしいと思っている、自分の思った障害者排除への布石をおいたとの自信があの笑顔であろうと思う。

異なるものを排除する社会の傾向は、近年の異民族の名を冠したヘイトクライムに見るまでも無く、
中学や高校での「風紀」規則に何十年も現れている。
 いつもあやふやなまま、なんとなく「6年の我慢」で済まされていた「高校生らしい」容姿と服装についての奇妙なステレオタイプである。
 学生服については、いわゆる学ランというのは微妙な位置にある。(制服研究というものがある)つまり、学生服というのはもとは兵士の洋装に発しており、その後一部エリート(旧制高校士官学校)の服装の誇りを引き継ぐものだが、その学ランを着崩すという反権力の象徴ともなった。改造学ランや、裏地の刺繍、など「不良文化=ヤンキー文化」はサブカルチャーの一ジャンルになってしまっている。だが、その反抗は、学ランを着崩してまで、なぜに「不良学生は学校に通うのか」という点で、権力の手のひらに乗っかった青いものであった。だから、着心地が悪かろうがその6年の我慢で解放された。(もはや大学で学ランを着る意味は応援団くらいしかない)
 しかし、天然の茶髪を「黒く染めろ」というのは、別である。
茶髪がいけない=高校生らしくない、というのは「髪を染めるのは不良であるからよくない」という観念とセットである。
 なぜ、茶髪がいけないのか。あるいはなぜ、男子の丸刈りや、女子の髪型制限がよしとされているのか。
 私立学校は「我が校のカラーである、我が校の伝統である」といって逃げ「いやなら、退学を」と迫る。反抗する生徒は「学生身分」を手放せと迫っているわけで、「なぜいけないのか」については、今まで明快で合理的な返答が得られたことがない。
 また「日本人ならば黒髪である」という常識はいつから権力の側の強制事項になったのか。
 私個人は小中高校と公立学校であったので、「もともと髪が茶色である」ということで、良識ある教師は「黒く染める」ということを求めなかった。
 だが、「茶髪狩り」は黒く染めろと指導があった時点で、人権侵害である。
 天然の茶髪者はマイノリティであり、世界に数々ある人種の容貌で、なかなかわかりにくい東アジア人の特徴を逸脱したものと判定されたわけである。欧米の白人の留学生は金髪を染めろとはいわれないであろう。(白人女性の金髪はかなりの割合で染めている人が多い。ヒラリーも夫が大統領候補になったときブルネットでは評判が良くない、というので染めている。マリリンモンローの金髪もそうである)
 もとが「不良発見の印」であったとしても、このような非寛容な判定条件を唯々諾々と曖昧にそのまま維持してきた日本社会の「常識」とはマイノリティ排除が堂々と行われてきた、少なくとも見えなければ(ある場所にマイノリティを押し込んでおけば)いい、という不気味な社会である。
 そこでは、常に個人を社会=国家基準が凌駕しており、いずれ全体主義に走らされる要素が消えてはいない。個人の尊厳や人権について少なくとも西欧のいう人権はないに等しい。日本が「人権」を無視できないのは、先進国として欧米基準の人権を認めなければ、国連という「近代西欧の始めた国家クラブ」への参加を認めてもらえないからである。そこには、「人権と排除されるマイノリティ」について真剣に考察したことがない社会が存在している。