七割生活,とほほ

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瀬戸正夫さんのことをドラマにしてほしい

日本から拒否された国籍 写真人生 六十余年

 

NHK大河ドラマの『いだてん』が視聴率が取れないというので苦闘しているそうだが、じゃあ、翌年の大河ドラマはなにやるんだろう?なに?明智光秀?また戦国かよう,と飽きてしまった。

 戦国と幕末ばかり繰り返しているわけで、じゃあ、それ以外でなにか日本史の大きなテーマといえば、やはり盧溝橋事件からアジア太平洋戦争での敗戦とその処理の時代だろうなあと思うわけです。

 いままでこの時代のことについては広島・長崎の原爆など「被害者としての日本人」を扱ったのは見ますが、それ以外の流れについてはいまだに政治的思惑で触れられない、まして今の政権だと太平洋戦争の元も、憲法も否定するばかりだろうから、触れられないだろうなあ・・と考えます。

 で、思いついたのは満州国からの引き上げをしてきた人たちや、海外での日本人収容所の経験などをした人、これはかつて「二つの祖国」とかでやっているので、アメリカの収容所ではないほうがいい、というのですぐに脳裏に浮かんだのが、バンコク在住の写真家瀬戸正夫さんの人生です。

 瀬戸さんは、上の記事でも見られるように、バンコクで写真家として活躍もしてきましたが、ご本人が数奇な運命を辿ったひとです。彼の自伝である『父と日本に捨てられて』はバンコク自費出版本としてでていて書いました。いまはなんと20000円以上の値がついていてびっくりします。

 瀬戸正夫でググるとすぐにでてくると思いますが、彼は日本人の父と母に戦前のタイのプーケットで育てられます。一家は南タイのソンクラーに住んでいて、父は医師でしたが、戦争が始まる前には港で釣りのふりをして港の深さを測るなど怪しい活動もしていた人です。日本軍がソンクラーと英領マラヤのコタバルに上陸すると、(それは真珠湾攻撃の1時間前です!)父は日本軍と一緒にマラヤにいってしまい、マラッカで役職についていたそうです。正夫さんと母はバンコクに移り、戦前は日本人学校に通っていましたが、日本の旗色が悪くなってきて日本が敗戦すると、日本人収容所に母とともに入れられてしまいます。

 瀬戸さんの記録ではアメリカのような悲惨な状況ではなかったそうですが、本当の苦しみはそこからで、戦後処理で日本への帰国者が増えるなか、母は日本に帰国できますが、正夫さんは帰国できない。なぜなら日本国籍がなかったから。

 その時点で彼の両親が実の父母ではないことがわかり、長く申請し、すでに帰国していた父と連絡をとるもとうとう日本国政府からは国籍を取得できず、諦めてタイの国籍をとりました。

 そして、戦後の日本商社のバンコク支店などで見習い小僧として働き、写真や水泳と出会い、特に、写真についてはベトナム戦争などの取材に来た報道カメラマンなどの助手(現地コーディネーター)となり、2018年には87歳でまだお元気のようです。

 彼の人生そのものがドラマです。おそらくは日本のスパイをしていただろう父、「からゆきさん」だったかもしれない母、日本人として収容されたのに、国籍がもらえない理不尽、などなど。
 ドラマとして考えると、タイの日本人会は100年を超える歴史を持っているので、それの絡み、さらに、戦後からベトナム戦争という時代のタイや東南アジア情勢など、めちゃくちゃ興味深いものなので、ドラマにしてほしい。大河ドラマにできないならば、数回に分けたものでも作ってくれないかと思います。

 戦争が終わった1945年からもはや74年たったのに、日本軍が真珠湾攻撃以前にマラヤ(シンガポール)進軍を進めていたことなど、ほとんど知らない人が多すぎます。

 一昨年でしたか、学生たちを連れてシンガポールで短期間の語学研修旅行をしたとき、私は途中で骨折してホテルに待機になってしまいましたが、もう一人の先生がシンガポールにのこる日本支配時代の戦績遺跡(やまほどあります)を探訪するツアーをやりました。地元の子供達は小学校のときから「日本軍統治時代(昭南島時代)」として教わっている時期です。マレーシア側のヌグリスンビランでは、日本軍はマレー人は味方につけようとしましたが、中国人には財産を取り上げたり、処刑虐殺事件を起こしていまして、これは変えようのない証拠があります。日本の敗戦後の戦争裁判でシンガポールではB級C級の戦犯として処刑された人もおります。こういう事実から目をそらしてはいけない。フィクションだと喚くのなら、瀬戸さんのような現実を体験した人を主人公としてベトナム戦争下で変化していくタイの姿まで描いたらいいのです。

 瀬戸さんの人生をドラマにしてくれないかなあ。