七割生活,とほほ

ちょっとニッチな分野の文系研究者による日々の感想とか,いろいろ

幕末の立体写真機がでてきた。

母が着物の断捨離をしたいというので手はずを整えたら、そのほかにも京都から引っ越してきた時にもってきたもので、今更使うあてもないものも処分したいという。

なので、いろいろ古物を見ていたら、中に、妙なものがあった。

面に「阿蘭陀製 写真鏡」とかいてある木箱である。

 その中身は、立体スコープと7枚の立体写真であった。

ふたの裏に墨書きで書いてあった字が読めないので、日本史の専門の友人に見てもらったら

 「元治元年甲子夷

西洞院中立売

後藤屋敷

 種山宗八郎晃恵」

と書いてあることがわかった。表にも名前があったがちょっとわからない。

 そして 元治元年というのは1864年であり、京都では池田屋事件、ついで禁門の変で京都のどんど焼きの大火の年である。西洞院中立売というのは現在の京都市上京区士長町、にしのとういんなかだちうりで、御所のすぐ西側、禁門の変では長州が攻めた蛤御門の3ブロックほど西側である。

 日本史の博士によれば、後藤屋敷というのは後藤縫殿助のことであろうといわれた。

で、調べてみると、この後藤縫殿助というのは江戸時代初期から徳川幕府と関係の深い特権商人であり、代々その名をついでいる。江戸時代初期には2代目は薩摩の島津から養子縁組をしたようである。江戸幕府のお抱えの商人として呉服をあつかっていたらしい。後藤家について調べているブログもあるのだが、幕末は井伊直弼などと親しく、絹の取引について進言したらしい。ただしこういう江戸時代の豪商が三井家など明治に百貨店になっていったのに後藤家の記録はないので、零落したのであろうとも書いてあった。

 その場所には『角川旧地名事典』の記事で

「宝暦町鑑」によると,中立売通新町西入より西洞院までを「長者町」,中立売通西洞院西入の町を「橋詰町」と称していた町内には幕府呉服所の後藤縫殿助をはじめ,菱屋長兵衛・松葉屋加兵衛・池田屋久左衛門・藤屋六兵衛・桔梗屋三右衛門ら12軒の呉服屋が軒を並べていた(京羽二重)そのほか,長崎割符商人三宅新右衛門・山本弥右衛門や朝鮮問屋の立入伝右衛門・井筒屋平左衛門らが居を構え,活況を呈していた(京羽二重織留)(以下略)」

 など賑やかな場所であったという。

 ところで、また別の論文を見つけた。これは禁門の変の時に京都が放火によって30000戸あまりが消失した「どんど焼き」と言われる被災範囲を調べたものである。

「火災図を用いた「元治の京都大火」被災範囲の復原」『歴史年防災論文集』vol.6 (2012) によれば、件の西洞院中立売は、大火で焼けた北の被災範囲であり、西洞院中立売の北西の角のみに被災を逃れた建物があったらしい。この京の「どんど焼き」の被災の大きさが江戸への遷都の要因の一つであったとも言われているので、後藤家もその時点でかなり大きな痛手を負ったのかもしれない。

 そして、なぜ、これがうちにあったかというのが謎である。

このステレオスコープを検索してみると、1851年のパリ万博で発表されて1860年代にはヨーロッパで流行し,その頃の日本にやってきて盛んに写真が撮られたらしく、画像で探すことができたが、家にある阿蘭陀製の木製のものは見当たらなかった。なんでも、1864年に折りたたみ式のものが発明されてそれが旧型を駆逐してしまったらしい。

 ということは、これは非常に珍しいものなのかもしれない。

木箱の中には写真ビューアーとともにヨーロッパの写真5枚と中国広東の郊外の写真、瀬田唐橋の写真があり、またヨーロッパの写真の裏にはなぜか1960年ぐらいの「タカラヅカ歌劇スターの楽屋写真、浜木綿子香川照之の母)、芦川いずみ」などがはってあったので、その時点でだれが所有していたのか謎である。

 家の一族は父方は富山の砺波出身の農民一族であり、母方は幕末の京都の御所警備の武家であって、明治になり、ひい叔母さんにあたる人に商才があって、室町に呉服商を開いて繁盛していたから、どう考えても、母方の関係でなにか入手したのであろう。

いずれにしろ趣味のものである。

 しかし、私が調べられるのはここまでなので、藩主が立体写真をコレクションしていた島津藩のコレクションをもっている尚古集成館に連絡して写真をおくり、調べてもらうことにした。それからどうするかを決めようと思う。

 しかーし!ひとつ文句があるっ!日本史系の解説書は元号のみで解説しているのが大半で、一体江戸時代の初期なのか幕末なのかわからん!この元治というのは1864-1865年の2年間孝明天皇のときだけであり、その次が慶応年間となる。わかっているだろうなどと考えないでちゃんと西暦も添えて解説しろよっ!

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木箱面。阿蘭陀製 写真鏡とかいてあり、左側は読めず。

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木箱の裏書。

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木箱の中のビューアー。一部痛んでいるので良品ではない。

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立体写真ビューアー

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写真の一部。ヨーロッパの彩色写真である。アルファベットのONVがあるのでもとはすべて揃っていたのだろう。

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ヨーロッパの写真のうらに、だれかが貼ったタカラヅカ歌劇のスター楽屋写真。

 

陸路国境を越える タイ=マレーシア その2

今度はクランタン州からタイに車ではいってしまった時のことです。

 わたしはマレーシアで自動車の運転免許を取得したので、留学中は中古車を買って2年間のってましたし、かなりの悪路や洪水にも慣れてますので、いまでもレンタカーを空港で真っ先に借ります。行く先がいつも田舎の村巡りなので、バスなど悠長なものを待っていられません。それ以前は留学中にバイク(スーパーカブ)を借りてましたが、熱帯雨林でスコールがしょっちゅうきて、びしょ濡れになるので、車に変えました。それでも車の前が見えないホワイトアウトになるくらいの雨がふります。

 その日も、わたしはクランタン州に出かけて、ホテルに泊まりました。ちょうどハリラヤの前日(断食開け)なので、町は翌日の食事の用意のため、賑わっていました。そして翌日レンタカーが借りられるか聞いてみると、ほとんど出払っているとのこと。じゃあ、明日は町にいるしかないかと思っていたら空き車がでたというので借りました。

 翌日。クランタン州はムスリムが圧倒的に多く、しかもイスラーム規範が厳しい州でもあるので、ハリラヤのようなお祝いの時には、せいぜい花火が鳴るくらいで、あとはみなさま実家に帰ります。なので、市場もどこもみな休みです。街が静かなので、退屈で車でタイの国境まで行ってみました。

 国境の検問所のところまで行きましたが、だれもいません・・・。

え?と思いつつ、進みます。ここの向うにも免税店があるはずで、行ってみましたが免税店も閉まってます。なんとなーく車を運転して、タイ側はどうなってるのか?と思ったら、ここも人がいないし、いつもタイで厳重に警備をしている警察の検問所も人がいません。

 え?え?と思いつつそのまま進んでいたら、いつのまにかタイの中に入ってしまいました。すぐに農村になってしまったので、まあ、いけるところまでいってもいいか、と運転していきます。農村を通りかかると中東の大学から帰ってきた息子が両親に挨拶しているらしい光景(息子の格好がサウジアラビア風)が見えたりしまして、ともかくみなさま家の中にいるようです。このあたりは2004年からテロが再発してしょっちゅう警察の検問所が設けてあるのですが、肝心の警察官は一人もみません。車も殆どであいません。

 ので、タクバイの町まで出ちゃいました。ここも静かです。しかし2004年の10月だったかには大規模デモを警察が鎮圧して逮捕者400名のうち、大半がトラックに積み込まれ警察署に着いた時には圧死していて国際的にも大問題になった場所です。

そうでなくともこのナラティワートなどは毎日のように携帯電話による爆弾テロ、銃撃、放火が怒っていて危険地域です。しかし、やっているのがムスリムならこのイスラームの祝日で皆が待ち望んでいる時に大規模な爆弾テロなどやらかすわけがない、という妙な確信から一応タクバイの町をまわってみました。静かです。店も閉まっています。

 ここからどうしようか?先へいってもいいですが、なにしろ出国スタンプも入国スタンプもないので、まずいとおもい、ひきかえしました。1時間で国境に戻りました。

 そうするとマレーシア側の方に一人おっさんがいたので、あのー、スタンプチェックしないでいいのか?と聞くと、ぎょっとした様子で、裏へまわれっ!といいます。裏といっても同じブースの反対側ですが、素直に回りました。

 おっさんは、もち場所にいなかったこと、サボっていたことがバレるとまずいと思ったらしい。で、「おまえ、タイにいってないよな?」と同意を求める目をしますので、「うんうん」と同意し(冷や汗)「免税店に1時間ほどいたんだよな?」「うんうん」ということで同意が成立し、おっさんは一応免税店に行ったというスタンプをおしてくれまして、わたしはマレーシアのクランタン州コタバルに戻りました。

 テロやってるというのに、なんちゅうゆるい警備や。タイ側ではまったく人をみませんでしたし。

 まあ、いろいろな国の陸路国境通過を経験しましたが、ここはあかんでしょう。

陸路国境を越える時のこと タイ=マレーシア その一

日本では「外国にいく」といえば、船か航空機しかないので、実感がないと思いますが、世界では陸路国境でつながっている地域のほうが圧倒的に多く、その国境にすべてフェンスが立っていたり検問所があるわけではありません。

 そして、そこを利用する人も日常的に国境を超えて隣国へいっているのです。

マレーシアのジョホール州は橋でシンガポールとつながっており、シンガポールへ「通勤」する人も多いので、国境超えのバスが普通の定期バスとして走っています。もちろん、バイクや車で通勤している人も多いです。

 シンガポールは物価、特に住居費などが高いので、ジョホールバルに住んでいて、シンガポールに通うというのはもう30年以上前から常態化してましたが、ジョホールバル側の発展と整備により、シンガポールから日常の買い物にバスで来る、入国管理手続きはマレーシア人は電子パスをもっているので、日本の電車改札のように通過してます。そしてマレーシア側のショッピングモールに直結しているので、野菜とかパンとかをマレーシア側で買って帰る(どのみちシンガポールの食べ物は輸入品依存です)ということになってました。完全に管理された国境です。

 ところが。

これが、タイとマレーシアの陸路国境だとまだ、そこまで一体化してないので、おかしなことも起こります。

 まず、マレーシア人でタイとの国境に接している州(プルリス、クダー、クランタン、ペラ)などは、特別パスとして越境するための簡便なのを取得できます。歴史的経緯で、そのタイとマレーシアの国境地域には縁者が分布しているからですが、いまは単純に住居で決められます。

 そしてタイとマレーシアをむすぶ、陸路国境の一番大きな動脈は、アジアハイウェイの一部であるマレー半島縦貫道で、マレーシア側のBukit Kayu Hitamとタイ側のSadaoを結んでいます。双方の入国管理局の間は歩いていける500mほどですが、間にFree Tax Zoneがあり、これはマレーシア側になります。

 国境を観察していて面白いのは、タイからくる車はタンクローリーピックアップトラックが多いのに対し、マレーシア側からはベンツのセダンなどの普通乗用車が多いのです。ここの国境を通る人は別に隣のタイと通勤しているわけではありません。タイは仏教国ですし、マレーシアの国教はイスラームです。そして南タイの第一都市であるハジャイはもともと華人が開いた町で、シーフードやツバメの巣などの料理で有名ですが、基本的に華人の町であり、中には売春宿などもありますので、「マレーシアの公務員は格段の理由がなければハジャイにいくことは禁止」というのをきいたこともあります。

 なので、ハジャイに行く人は主に観光客や華人系のビジネスマンが多い。タイ、マレーシア人でない場合も、長距離バスでペナンからハジャイ、ハジャイからプーケットやクラビー、またはバンコクへというパターンをよく見ます。

 その観光客ですが、普通は日本人が思っているほど鉄道は使いません。マレーシアもタイも車社会で、鉄道はむしろ外国人観光客が喜んで乗ってます。

 その国境ですが、まるで日本の高速道路入り口のような作りになっていて、まずは車に乗ったままパスポートを出して出国スタンプを押してもらいます。それから車をタイに入国させるためには「ブルーブック」と呼ばれる、車が自分の持ち物であることをしめす証明書(マレーシアには車検証はありません)をみせないといけません。タイで安く売っぱらってくることがあるからです。マレーシアは自国で車を生産してますので。

 そして、バスの人は一旦バスからおりて、同じくパスポートチェックを受けて、時には歩いてタイ側の入管に向かい、入国スタンプを押してもらうとそのあとにバスが待っています。荷物検査もあります。密輸が多いからです。

 タイとマレーシアの国境は海路を含めて7つほどありますが、ほぼすべて通った経験があります。深南部の国境は近年完成してますが、タイ側のテロの事情で開通してないのかも。できたばかりのときに見学にいきましたが。

 そして、ハジャイから帰ってくる華人系観光客が多いので、タイ側ではパスポートチェックを急いでやってくれますが、長蛇の列です。

 で、こんなことがありました。

 タイから出国のスタンプをみると、入国した時から二ヶ月も前のスタンプになっているじゃないですか。ゴム印で押しているので、間違っているのですね?ということは、その日ここの国境を通った人は大勢、間違った日付でタイを出国しているわけで、それに気がつかないというか、ゆるいというか、シンガポールとちがったミスがあります。

ええのかそれで?

 

瀬戸正夫さんのことをドラマにしてほしい

日本から拒否された国籍 写真人生 六十余年

 

NHK大河ドラマの『いだてん』が視聴率が取れないというので苦闘しているそうだが、じゃあ、翌年の大河ドラマはなにやるんだろう?なに?明智光秀?また戦国かよう,と飽きてしまった。

 戦国と幕末ばかり繰り返しているわけで、じゃあ、それ以外でなにか日本史の大きなテーマといえば、やはり盧溝橋事件からアジア太平洋戦争での敗戦とその処理の時代だろうなあと思うわけです。

 いままでこの時代のことについては広島・長崎の原爆など「被害者としての日本人」を扱ったのは見ますが、それ以外の流れについてはいまだに政治的思惑で触れられない、まして今の政権だと太平洋戦争の元も、憲法も否定するばかりだろうから、触れられないだろうなあ・・と考えます。

 で、思いついたのは満州国からの引き上げをしてきた人たちや、海外での日本人収容所の経験などをした人、これはかつて「二つの祖国」とかでやっているので、アメリカの収容所ではないほうがいい、というのですぐに脳裏に浮かんだのが、バンコク在住の写真家瀬戸正夫さんの人生です。

 瀬戸さんは、上の記事でも見られるように、バンコクで写真家として活躍もしてきましたが、ご本人が数奇な運命を辿ったひとです。彼の自伝である『父と日本に捨てられて』はバンコク自費出版本としてでていて書いました。いまはなんと20000円以上の値がついていてびっくりします。

 瀬戸正夫でググるとすぐにでてくると思いますが、彼は日本人の父と母に戦前のタイのプーケットで育てられます。一家は南タイのソンクラーに住んでいて、父は医師でしたが、戦争が始まる前には港で釣りのふりをして港の深さを測るなど怪しい活動もしていた人です。日本軍がソンクラーと英領マラヤのコタバルに上陸すると、(それは真珠湾攻撃の1時間前です!)父は日本軍と一緒にマラヤにいってしまい、マラッカで役職についていたそうです。正夫さんと母はバンコクに移り、戦前は日本人学校に通っていましたが、日本の旗色が悪くなってきて日本が敗戦すると、日本人収容所に母とともに入れられてしまいます。

 瀬戸さんの記録ではアメリカのような悲惨な状況ではなかったそうですが、本当の苦しみはそこからで、戦後処理で日本への帰国者が増えるなか、母は日本に帰国できますが、正夫さんは帰国できない。なぜなら日本国籍がなかったから。

 その時点で彼の両親が実の父母ではないことがわかり、長く申請し、すでに帰国していた父と連絡をとるもとうとう日本国政府からは国籍を取得できず、諦めてタイの国籍をとりました。

 そして、戦後の日本商社のバンコク支店などで見習い小僧として働き、写真や水泳と出会い、特に、写真についてはベトナム戦争などの取材に来た報道カメラマンなどの助手(現地コーディネーター)となり、2018年には87歳でまだお元気のようです。

 彼の人生そのものがドラマです。おそらくは日本のスパイをしていただろう父、「からゆきさん」だったかもしれない母、日本人として収容されたのに、国籍がもらえない理不尽、などなど。
 ドラマとして考えると、タイの日本人会は100年を超える歴史を持っているので、それの絡み、さらに、戦後からベトナム戦争という時代のタイや東南アジア情勢など、めちゃくちゃ興味深いものなので、ドラマにしてほしい。大河ドラマにできないならば、数回に分けたものでも作ってくれないかと思います。

 戦争が終わった1945年からもはや74年たったのに、日本軍が真珠湾攻撃以前にマラヤ(シンガポール)進軍を進めていたことなど、ほとんど知らない人が多すぎます。

 一昨年でしたか、学生たちを連れてシンガポールで短期間の語学研修旅行をしたとき、私は途中で骨折してホテルに待機になってしまいましたが、もう一人の先生がシンガポールにのこる日本支配時代の戦績遺跡(やまほどあります)を探訪するツアーをやりました。地元の子供達は小学校のときから「日本軍統治時代(昭南島時代)」として教わっている時期です。マレーシア側のヌグリスンビランでは、日本軍はマレー人は味方につけようとしましたが、中国人には財産を取り上げたり、処刑虐殺事件を起こしていまして、これは変えようのない証拠があります。日本の敗戦後の戦争裁判でシンガポールではB級C級の戦犯として処刑された人もおります。こういう事実から目をそらしてはいけない。フィクションだと喚くのなら、瀬戸さんのような現実を体験した人を主人公としてベトナム戦争下で変化していくタイの姿まで描いたらいいのです。

 瀬戸さんの人生をドラマにしてくれないかなあ。

 

1979年のアルバム「KYLYN」(1979)について、オンタイムでLPを買っていた私からの感想

2019年3月号の「ミュージックマガジン」の特集はなんと、AOR・ヨットロック・ベスト100ですって!ヨットロックってのはしりませんが、この雑誌を1978年くらいからずっと定期購読してる私は仰天。一番AORをけなしていた雑誌ではありませんか。いまから評価がかわったって?当時の中村とうよう氏は「身体的グルーブのある音楽」が好きで「商業音楽」がキライなひとだったので、70年代のジャズ、80年代のアメリカロックはくそみそにいわれてました。

 わたしは当時阿木譲の「ロックマガジン」とソウル・ジャズ誌の「アドリブ」を両方読んでいたのですが、輸入盤を探すときは、ロックマガジンの推薦を重視し、その次にミュージックマガジン(ニューミュージックマガジン)を参考にしてました。で、京都市の怪しいビルの二階にある輸入盤屋でレコードをシュッシュッと繰り上げては、主にジャケ買いしてたのです。ジャズ/AOR系はまあどれも同じようなものでしたが、ニューウェーブオルタナティブの英国物(わたしはほとんど今に至るまで英国ロックひいきです)はジャケ買いのセンスで音楽の内容が当たりました。

 で、KYLYNですが、ネットで見ると、近年になってこの1979年の渡辺香津美名義のアルバムをきいた人が多くて、なんだか稚拙な評価がされているようなので、厚かましくもオンタイムで、70年代のジャズ・フュージョンから80年代以降のニューウェーブをしつこくきいていた立場から振り返ってみます。

 当時まるで日本の歌謡曲に興味がなかった私はビートルズフリークでもなく、ただピアノを習っていたこともあって、曲は歌のないキーボードで選ぶ傾向がありました。なので、最初は深町純にはまり、その後、坂本龍一にはまりました。なので、渡辺香津美はどうでもいいですw

 というより、当時はLPが主流でしたがその録音技術が上がって、何より録音技術の良いギタリスト名盤シリーズというようなものが出てました。

 音楽の傾向としては確かに70年代のジャズ・フュージョンアメリカでもどこでも同じようなもので閉塞気味。なので、発想は陳腐化し、もっぱらスタジオミュージシャンをやっていた超絶技巧演奏者を賞賛するようなアルバムが多かった。ロックも同様でプログレも大仰になってきて飽きてきた。

 キーボードでもフェンダーローズの時代ですから本格的なアナログシンセでアープオデュッセイを使いこなせる人ってのはまず、お値段環境的に入手できる人が限られ、そんなに居なかったとおもいます。その直前に冨田勲の「惑星」がブームになってましたからね。いわゆるムーグなどの「タンス型シンセ」です。

 パソコンのスペック争いみたいなもので、ドラムならスティーブ・ガッドの正確無比な技巧に皆が憧れ、ギタリストには技巧的なスターが必要でした。で、高中正義とか渡辺香津美(若かったし)の記事ばっかり出てました。

 その中で、わたしはLPの裏に書いてあるキーボーディストでLPを選んでいたわけです。深町純の名前は最初は小椋佳・安田裕美・星勝の「フライングキティバンド」の

という企画物「5・4・3・2・1」(1977)というアルバムのシンセ担当で目にしました。アープオデュッセイの音でした。それから注意して探すようになりました。坂本龍一の名前はたしか細野晴臣鈴木茂山下達郎の企画版の「Pacific(1978)で見たように思います。

 当時はフュージョンという分類がレコード屋になかったので、ジャズの中から漁っていたのですが、ちょうど深町純が「オンザムーブ」(1978)をブレッカー兄弟とNY録音していたのを入手して、そのとき、「KYLYN」や「サマーナーブス」(1979)がでるというのを知ったので、予約して入手しました。なにしろ当時はマイナーだったので入手できるかわからなかったですからね。

 でここからいよいよ「KYLYN」ですが、メンバーの豪華さにのけぞりました。なにしろ、このメンバーでその当時の歌謡曲なんかのバックバンドというかスタジオミュージシャンに関わっていた、サディステックスの高橋幸宏の乾いたスネアドラムが好きで、渡辺香津実はあまり好きではなかったのですが、プロデューサーが坂本龍一なのでこれは!とおもって買ったのです。

 で、内容ですが、そういう技巧のみが賞賛される中で、技巧についてだれも文句がいいようがない。

 参加者は、wikipediaから転載すると

で、ともかく全員がいままでの音楽に不満があり、それぞれ同時または後で自分のソロで新しいタイプのアルバムをだしてました。

 当時のジャズ・フュージョンの御大といえばまだ渡辺貞夫でしたから、20代後半のKYLYNのメンバーの鼻息も荒かった。なので、このグループのは後ででたLIVEのLPを高く評価する人もいます。LIVE版がそもそも好きではないわたしはそんなに評価しませんが。

 ともかく、当時の評論家がギターの技術的技巧を褒める中で、「ああ、これは確かにクロスオーバー(とも言った)だわなあ」と思ったのは坂本龍一の作曲するE-Day・プロジェクトです。当時のpopでもなく、ロックでもなく、ジャズでもない。アイル・ビー・ゼアもそうです。なるほど。

 しかし、こいつめ!とおもったのはタイトルのKYLYNです。この手のジャズスタイルでは大抵、演奏にギタリストとかそれぞれのパーツのアドリブ時間が入りますが、まあ、渡辺香津美は上手いけど普通。しかし、このKYNYNは作曲が坂本龍一で主メロディーはポップにしてありますが、自分のシンセパートで、とんでもないアドリブをやらかしました。無段階音階にノイズはいりまくり。これが彼の本質だったのですね。

 同時期にでた「千のナイフ」や「YMO」でもそうですが、当時としては音色とは考えられないようなシンセしか出せないノイズを、アドリブ部分に入れてますので、これを聞いた人の中には「浮いている」と思った人がいるのも納得です。

 同じ時期にニューウェーブのフライングリザーズ(段ボールを叩いてmoneyを演奏する現代音楽家)なども聞いてましたから、この坂本龍一ってどんな人かとおもえば、深町純の後輩じゃないですか。東京芸大の作曲科。音楽を作る環境は完璧に保証されてます。彼が、深町純とちがって大学院まで行ったのはそれが使えるからだろうと思いました。逆にいえば、FMの「現代音楽の時間」なんかで武満徹一柳慧、林光なんかもきいてましたから、同時に現代音楽家たちが「お仕事として」NHKの「シルクロード」のテーマを作ったり、大河ドラマの曲を担当したり、つまり大衆向き音楽を「バイト」といっては失礼ですが、そういうスタンスで作っていたのも知っていたのです。深町純も「新坊ちゃん」等でテーマを作ってます。

 なので。坂本龍一については「こいつ才能の無駄遣いしてるな」とか「あるいは余裕こいてKYNYNをやってるな」と思いました。努力してプロのギタリストやバンド経験から技巧を磨いてきた(高橋幸宏)たちと違い、また天才(矢野顕子)でもなく、ちゃんと音楽教育を受けてきたので、それ故の硬さもあるのですが、余裕です。27才の坂本龍一は。

 失礼なやっちゃな、と思っていたら、バイトでスタジオミュージシャンをやり、「アメリカンフィーリング」の編曲で80年に日本レコード大賞編曲賞を取りました。前の年の賞は星勝(井上揚水の二色の独楽)、翌年の81年は井上鑑ルビーの指輪)です。

 で、坂本龍一はKYNYNとYMOを同時並行してやっていて、YMOの基本構想は細野晴臣だったので、ぶれることなく、Popでロマンチックなところは高橋幸宏がやって(二人の調整役でもある)、坂本龍一は、ノイズだらけの千のナイフYMOの持ちネタに入れ、世界ツアーでは渡辺香津美を連れて行って、技巧巧者の好きなアメリカ人を仰天させたわけです。

 KYLYNとYMOの登場で、「技巧が上手いだけでは結果皆同じになるしかない」「音楽は既成概念の破壊」という流れができてしまい、それから以降、英国からニューウェーブ(技巧はないが創造力は豊か)がどんどんでてきたので、一挙に日本のフュージョン技巧礼賛はしぼんでしまった(すくなくとも帯にそれを書いても売り文句ではない)と思います。

 その意味でKYNYNは果たして渡辺香津美にとって良かったのかどうかわかりません。ちょっと気の毒な気がします。坂本龍一の踏み台になっちゃったという点も感じて。

 

LINEのスタンプを発売する。「かえるライフ」

LINEを始めて、すぐに手持ちの絵からスタンプを作って、LINE creator'smarketに申請していましたが、承認がきましたので、販売開始しました。

日本語では「かえるライフ」にしました。並べてみると冬の絵が多いので、これからまた、LINEでつかいやすいカエルキャラクターを描いていきます。すでに32個の案はあるので、時間のあるときにぼつぼつと。

 なお、私のイラスト環境はArtRage5というソフトで、これでマウスで絵を描くのに馴れてしまいました。

 JPEGに書き出して、マックのプレビューでサイズ調整とpng化します。

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こたつ寝

概ねこんな絵です。

 

ダイアリーからはてなブログ(一般公開)へ移行と 乳がん治療のその後などなど「七割生活」

はてなダイアリーが移行するというので,わずかなことしか書いていないが,一般公開用としてやはり残すことにして移行作業をした。

 日々ネットにアクセスしているが,大抵はFBかツイッターなので,あまりここにはかかないかもしれない。文才もない。が,まあ,書くことも出てくるだろうし,あくまで一般に公開できる内容であることを限定にかきます。

 

はてなダイアリーでの最後の記事は2017年3月のもので,2015年に発覚して治療した乳がん治療の経過です。

治療は2017年3月に終わりましたが,その後も3ヶ月に一回の定期検診などを続けています。

 わたしの場合は,ステージII−aだったので,部分切除となり,前回の記事の後はホルモン剤治療(タモキシフェン)を毎日一錠のみ,検診するだけ。今のところ予後良好。前回まで,CEA腫瘍マーカー)の数値がでてましたが,今年1月の数値はなし。なので,あとは定期検診を続けながら,あと3年異常がでないように祈るだけです。

 異常といえば,抗がん剤治療薬のドセタキセルというのを2度使ったときに,ひどい味覚異常と手足のしびれがでて,即座にそれの使用停止になりましたが,後遺症は2年たった今でもまだ残っています。微々たる回復でやっと舌の味覚異常はなおってきてますが,ビリビリとしたしびれは足指と手指と舌に残っていて,辛いものがたべられません。いたいもん。でも,それですんでよかったかも。

 この乳がんの治療の他に,わたしは糖尿病とパニック障害の治療も受けていて,そっちのほうが実は大変です。金額的に。

 あんまり考えなかったので医療保険にはいっていなかったので,相当のお金が出ていきました。標準的な治療ですが。いまも,糖尿病とパニック障害の治療で,月21000円は3割負担で出て行きます。

 ちょうど確定申告をしたところですが,医療費計算で43万円ほどになりました。なので還付申告をしました。

 65才まで働ける職場でよかったと思います。

 この2年の間に職場の環境も変わりました。学内の別組織に移ったのです。ちょうど乳がん治療で入院していた時期に,大学の改組があって,属していた文学部系のところから2名,別組織,事実上の教養部復活なのですが,そこへだれが移るかということで,定年の近い順からというので私と同僚が移りました。

 もともと,教養部に就任していたので,実はいままでいた学部の所属先では本来の専門ではないことをやらねばならず,集団行動の苦手な私にはかなりストレスになっていたのです。

 で,移動して(研究室はそのまま)で初歩的なことを教える授業に復帰しましたが,そのほうが実は,療養後にはよかったようです。

 大学でも自分のゼミや自分の学生たちとわいわいやるのが好きな教授もいますが,わたしはそうではないし,自分の研究は別の大学での科研チームであと4年は2つほどやっていきますので,むしろ専門を教えるのは大学院だけになりかなりストレスが減りました。

 わがままですが,自分で決めたというより流れでそういうことになったし,病気の時期に本来ならいろいろと役職がつく年齢だったのですが,病気でそれを辞退できてその後も「療養しつつ」なので,わたしはそれで十分です。