幕末の立体写真機がでてきた。
母が着物の断捨離をしたいというので手はずを整えたら、そのほかにも京都から引っ越してきた時にもってきたもので、今更使うあてもないものも処分したいという。
なので、いろいろ古物を見ていたら、中に、妙なものがあった。
面に「阿蘭陀製 写真鏡」とかいてある木箱である。
その中身は、立体スコープと7枚の立体写真であった。
ふたの裏に墨書きで書いてあった字が読めないので、日本史の専門の友人に見てもらったら
「元治元年甲子夷
京西洞院中立売
後藤屋敷
種山宗八郎晃恵」
と書いてあることがわかった。表にも名前があったがちょっとわからない。
そして 元治元年というのは1864年であり、京都では池田屋事件、ついで禁門の変で京都のどんど焼きの大火の年である。西洞院中立売というのは現在の京都市上京区士長町、にしのとういんなかだちうりで、御所のすぐ西側、禁門の変では長州が攻めた蛤御門の3ブロックほど西側である。
日本史の博士によれば、後藤屋敷というのは後藤縫殿助のことであろうといわれた。
で、調べてみると、この後藤縫殿助というのは江戸時代初期から徳川幕府と関係の深い特権商人であり、代々その名をついでいる。江戸時代初期には2代目は薩摩の島津から養子縁組をしたようである。江戸幕府のお抱えの商人として呉服をあつかっていたらしい。後藤家について調べているブログもあるのだが、幕末は井伊直弼などと親しく、絹の取引について進言したらしい。ただしこういう江戸時代の豪商が三井家など明治に百貨店になっていったのに後藤家の記録はないので、零落したのであろうとも書いてあった。
その場所には『角川旧地名事典』の記事で
「宝暦町鑑」によると,中立売通新町西入より西洞院までを「長者町」,中立売通西洞院西入の町を「橋詰町」と称していた町内には幕府呉服所の後藤縫殿助をはじめ,菱屋長兵衛・松葉屋加兵衛・池田屋久左衛門・藤屋六兵衛・桔梗屋三右衛門ら12軒の呉服屋が軒を並べていた(京羽二重)そのほか,長崎割符商人三宅新右衛門・山本弥右衛門や朝鮮問屋の立入伝右衛門・井筒屋平左衛門らが居を構え,活況を呈していた(京羽二重織留)(以下略)」
など賑やかな場所であったという。
ところで、また別の論文を見つけた。これは禁門の変の時に京都が放火によって30000戸あまりが消失した「どんど焼き」と言われる被災範囲を調べたものである。
「火災図を用いた「元治の京都大火」被災範囲の復原」『歴史年防災論文集』vol.6 (2012) によれば、件の西洞院中立売は、大火で焼けた北の被災範囲であり、西洞院中立売の北西の角のみに被災を逃れた建物があったらしい。この京の「どんど焼き」の被災の大きさが江戸への遷都の要因の一つであったとも言われているので、後藤家もその時点でかなり大きな痛手を負ったのかもしれない。
そして、なぜ、これがうちにあったかというのが謎である。
このステレオスコープを検索してみると、1851年のパリ万博で発表されて1860年代にはヨーロッパで流行し,その頃の日本にやってきて盛んに写真が撮られたらしく、画像で探すことができたが、家にある阿蘭陀製の木製のものは見当たらなかった。なんでも、1864年に折りたたみ式のものが発明されてそれが旧型を駆逐してしまったらしい。
ということは、これは非常に珍しいものなのかもしれない。
木箱の中には写真ビューアーとともにヨーロッパの写真5枚と中国広東の郊外の写真、瀬田唐橋の写真があり、またヨーロッパの写真の裏にはなぜか1960年ぐらいの「タカラヅカ歌劇スターの楽屋写真、浜木綿子(香川照之の母)、芦川いずみ」などがはってあったので、その時点でだれが所有していたのか謎である。
家の一族は父方は富山の砺波出身の農民一族であり、母方は幕末の京都の御所警備の武家であって、明治になり、ひい叔母さんにあたる人に商才があって、室町に呉服商を開いて繁盛していたから、どう考えても、母方の関係でなにか入手したのであろう。
いずれにしろ趣味のものである。
しかし、私が調べられるのはここまでなので、藩主が立体写真をコレクションしていた島津藩のコレクションをもっている尚古集成館に連絡して写真をおくり、調べてもらうことにした。それからどうするかを決めようと思う。
しかーし!ひとつ文句があるっ!日本史系の解説書は元号のみで解説しているのが大半で、一体江戸時代の初期なのか幕末なのかわからん!この元治というのは1864-1865年の2年間孝明天皇のときだけであり、その次が慶応年間となる。わかっているだろうなどと考えないでちゃんと西暦も添えて解説しろよっ!